社会人として、エンジニアとしてのはじまり

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1社目 エンジニアとして

2000年の4月、僕は愛媛にいた。
僕にはやりたいことがあり東京でしばらくフリーター生活をしようと思っていたら、親に強制送還をくらったことで愛媛に呼び戻された。さすがに実家に帰っても仕事はないことはわかっているので、仕事を探しながら松山の友人宅に居候していた。

当時の僕は学生時代にホームページをつくって、チャットサービスなどを運営していたことなどがあって、技術的にはC言語とHTMLやCSS、JavaScriptと多少PerlでCGIができることがあり、高校の同級生の紹介であるベンチャーの方を紹介された。
そこで出会ったのは菊池さんといい、いまはリアルワールドという会社の経営者をやっている。

そのときのことはよく覚えていて、菊池さんにつくったコードをみせてくれと言われ、
「うん、綺麗にかけてるね、しばらく働いてよ。」と、採用をしてもらった。

僕は当時、企画職をやりたくて、企画兼コーダーとして採用されていた。
クライアント先にヒアリングにいったり、素材をもらってサイトをつくったりするのがメインの仕事だった。当時は菊池さんには何度もダメだしをくらったと思う(笑
そしていつしかPerlでプログラムを作ることもメインになっていった。

その頃東京ではビットバレーといわれ、渋谷界隈でサイバーエージェントやオン・ザ・エッジという会社がすごいことやってるという話はきいていた。
当時の僕はビジネスの難しいことはわからなかったが、技術的にすごいことやってるんだなと思った。

あるとき、僕は京都で行われるLinuxカンファレンスに参加させてもらえることになった。
そこではオープンソースについて最新の技術の話が聞けるということで僕はワクワクして参加した。
なんとPerlの作者であるラリー・ウォール氏やRubyの作者のまつもとゆきひろさんも参加されていたのだ。
このカンファレンスを機に僕は本気でITのエンジニアになることを決意する。
その後、愛媛へもどり、より一層技術力向上に打ち込むことになる。

当時WEBでの開発でデータベースを使うことはほぼなくCSVやTSV形式のファイルを扱うことが一般的だった。しかしこれからはデータベースだ!と菊池さんも言い出したので、PostgreSQLを使った開発を試みた。そもそもDB設計からわからないので、このあたりはOracleなどを使ってる人にヒアリングにいったのを記憶している。

またインフラもこのとき学ぶようになる。
当時夜になるとバイトで来ていた大学生で、いまはシェアゼロという会社のCTOをやっている大野さんにWEBサーバ、DNSサーバ、メールサーバについてを仕組みからインストールするまで教えてもらった。
僕はそこで学んだことをノートに書き写し、自分のものにするまで何度も繰り返していた。
そうやってインフラやネットワークの仕組みを学んでいった。

そういう苦労を重ねて、携帯3キャリア+PCに一斉配信ができるメルマガシステムが完成した。

2社目 葛藤と技術プライドの目覚め

2001年になったばかりのとき、親会社の意向により僕たちは香川の会社へ出向するようになった。
そして僕は香川県高松市の栗林公園のすぐ近くに住むことになった。

香川の会社ではi-modeの公式サイトを開発していた。
当時としては四国ではかなり頑張っていたほうではないだろうか。

ただこのころの僕は技術に関してしか興味がなく、少し会社都合で振り回されるのにやさぐれかけていた。また、新しく僕の上司になったエンジニアの方はマネジメントがうまい方でもなく、僕はかなりストレスを溜め込むことになる。

そんな中、いままでPerlとPostgreSQLを使っていたところからPHPとMySQLに変更され、僕も納得感のないまま、その流れに乗るようになった。
正確には僕が折れた感じで納得せざるを得なかった。
そののち数週間ではあったが官公庁に絡む仕事に出向させられ、僕のストレスはさらに溜まっていった。

その裏で僕がストレス解消としてやっていたことがある。
それは自宅にグローバルIPを8個借りて、サーバも知人などからかき集め、自宅にデータセンターを開設し、運営することだった。ルータや一部のサーバは借金して買ったものもある。
月の手取りの3〜4割は自宅データセンターの維持費と書籍代で使っていた。
故にお金もなく、香川では安く食べられるうどんはとてもありがたかった。
あとは安い炊飯器に米を炊き、パックの味噌汁と梅干しだけでしのいでいた。
マヨネーズライスじゃないだけ、マシだったとは思う(笑
そんな生活の中、僕はひたすらインフラを中心とした技術を学んだ。

もうひとつ。僕の溜まりに溜まっていたストレスだが、当時それをギリギリで保てた理由がある。
それは高橋しん先生の「いいひと。」という漫画とSURFACEとの出会いだった。
「いいひと。」は、ある会社の運動靴が好きなひとのいい主人公が憧れの会社に入り、ただ純粋な好きという気持ちと行動力だけを武器に周りのひとを仕事で幸せにする話で、僕はとって働くということを信じる支えとなってくれた。
SURFACEは当時「Fate」という神アルバムが発売されていて、ゴーイングmy上へ、なあなあ、まぁいいや、など前向きになれる歌をたくさん聴くことができた。
当時のことを思い出すと、「いいひと。」を読みながらSURFACEを聴いていて、テンションを上げたあとに自宅で開発をするということをやっていた。
僕がモチベーションを重要視するようになったのはこのときの経験が大きいのだと思う。

一方、会社では今後どういった戦略にするかということを全社員で話し合う場があり、「四国でトップになって東京に進出する」とか決まった。
僕は唯一それに反対し、「東京にいかないとダメだ!」と主張していた。
僕が辞めようと思った決定的原因はこれで、技術にのめり込むうちに、技術力を高めるなら東京にいかないとダメだ。と確信を持った。

そんなとき、たまたま登録していたFindJobをみた東京のゲーム会社から「お会いしたいので東京に来ませんか?交通費も持ちます」という連絡をいただきすぐ会いにいった。
日帰り面接だったわけだが、その面接後に握手を求められ、内定だすから来てね、といわれた。
僕は即決し、香川に帰り退職を伝え、2001年の11月に僕はまた東京にいくことになる。

四国時代を振り返って

愛媛時代、香川時代を振り返って、ベンチャー精神にあふれ、精力的に自らを信じて頑張る人たちの中で多くのことを学ばせていただきました。
ぶつかりあったこともありますが、この時代があったから今の僕があるんだと言えます。
とくにお世話になった菊池さん、藤田さん、大野さんにこの時代出会え、一緒に仕事できたことは僕にとってかけがえのない経験です。本当にありがとうございました!

そしてここで創られた土台を元に、僕はまた東京へ向かうのです。

– To Be Countinued -